15歳のとき、とある音楽雑誌に載っていたPeter Frampton(’70年代に活躍したロンドン出身の歌手・ギタリスト)の姿にただただ衝撃を受けこんなふうになりたいと夜な夜な新聞配達をして念願のギターを手にしたのが沼田恵三のギター人生の始まりである。
それからは片ときも、寝る時さえギターを手放すことがないほどギターに没頭し、Led ZeppelinやCharなどにも影響をうけながら高校時代からはコピーからオリジナルまで様々なバンドを経験しライブハウスや学園祭でライブも行っていった。
高校卒業後は会社勤めをしながらもバンド活動は続け、いつしかミュージシャンとして世界ツアーをすることを夢に、メジャーデビューすることが目の前の目標になっていたという。
そんななか19歳の時に札幌でも実力派のメンバーと意気投合しバンドHan-na(ハンナ)を結成した。主に札幌のライブハウスで活動し徐々にファンもついていったという。
しかしそう簡単にはメジャーデビューへ道は開かれず試行錯誤し悩んだすえ目標を実現するために働いていた会社を退社。
その後、不思議なもので完全にバンドへとシフトした頃からHan-na自体も数々のバンド大会でグランプリを受賞しメジャーデビューへの道が徐々に開かれていった。
そして結成から6年、ついにその独特なバンドサウンドが来生たかお、安全地帯、バービーボーイズなど数々の有名なアーティストをかかえる大手プロダクションの目にとまり25歳でメジャーデビューを果たしたのである。
しかしデビューできたからといって必ずしも輝かしい未来が待っているわけではなかった・・・。
CDリリース、全国LIVEツアー、TV・ラジオ出演など精力的に活動を行うが思うように売れることはなく大きな挫折を感じながらメンバーそれぞれの方向性も変わっていきデビューから3年後、解散という結論にいたった。1991年日本経済も、ちょうどバブル崩壊の頃であった。
しかし当時、バンドで成功しなかったからといって札幌に帰るという考えには何故か全くいたらなかったという。男としてのプライドもあったのであろう・・・。そのまま東京にとどまり沼田恵三のどん底生活が始まった・・・。
経済自体も冷え込んでいたためか、とにかく極貧で食料の確保すら難しく、安くて空腹を満たすことのできる「こんにゃく」だけを食べ続け激やせしてしまったという。(あたりまえだが危険なので絶対真似しないコ!ト!)
新しくバンドを組むなど音楽活動を続けながらも空いた時間にアルバイトをしてなんとか食いつなぐというそんな生活が2年ほど続き、路上生活さながらになりそうなとき、当時売り出し中であった藤重政孝のサポートバンドの仕事が舞い込んだ。
ところが音楽の仕事が舞い込んで喜ぶのかと思いきや自分のバンドで成功することを夢見ていた本人としては「サポートなんて・・・」と初めは生活のためにこなすぐらいにしか考えていなかったという。
だが実際に仕事をしていくなかで「自分が奏でる音に自分のバンドだろうがサポートだろうがそんなこと全く関係ない」ということに気が付きプロとしての意識も高まってきたそうだ。
そのときに培った人間関係にも助けられ、その後もサポートの仕事が入るようになり、どん底から這い上がっていった。
圧倒的な存在感を放つエレキギターソロや天性の心地よいノリのアコースティック演奏に定評のある沼田恵三のギターサウンド。
そのサウンドは衰えることなく、歳を重ねるごとに確実に魅力を増している。